妹も友達も 原爆に奪われた

妹も友達も 原爆に奪われた

 広島、長崎への原爆投下から今年で72年。被爆者の高齢化が進むなか、記憶と思いを次の世代に託そうと、証言者の語りが続いている。平和学習や修学旅行で広島を訪れた児童・生徒らへの講演活動を続けている元特別支援学校教諭の塩冶(えんや)(旧姓・関)節子さん(77)=広島市安佐南区=は、「原爆で命を絶たれた子供たちがいたことを忘れず、今を生きる皆さんがそれぞれできることをやってください。再び戦渦に包まれないように」と訴えている。

 72年前の8月6日、5歳だった塩冶さんは、爆心地から1・6キロの段原町(現広島市南区)の崩れ落ちた家の中から母、光江さんが差し伸べた手にひっぱり出された。逃げる途中、男の人の死体がころがっているのを目にし、近所の仲良しの女の子が亡くなったことを避難先で教えられた。

 5歳の記憶は、どの場面でも「人の死」ばかりだ。

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 被爆から2年たった小学2年のとき、親友の朝子ちゃんが血を吐いて急死した。その5年後、運動が得意だった3歳違いの妹、悦子さんが突然高熱に襲われ、翌日あっけなく亡くなった。後に放射線の後遺症ではないかと聞いた。

 塩冶さんは証言を始めて12年になる。当時幼かった自分に語る資格はないと口をつぐんでいたが、「子供の頃の壮絶な記憶だからこそ大切」と、周囲から背中を押された。

 「いま、当たり前と思っている生活や幸せが突然奪われるのが戦争です。絶対に許されない」。講演では亡くなった妹と親友の写真も見てもらい、ノートにつづった思いを伝える。

http://blog.crooz.jp/jpaeirpaerpo/ShowArticle/?no=2
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 講演を聞いた児童・生徒たちからは「今度は僕たちが塩冶さんの話を伝えていきます」「友達を大切にし、後悔のないよう、めいっぱい生きたい」といった手紙が届くことがあるといい、子供たちの言葉に希望を感じるという。

 昨年は体調を崩して講演をいくつか断った。今年の8月6日は、北海道安平(あびら)町から訪れる小中高生たちに証言する予定だ。

 過酷な体験を胸に秘する被爆者は多い。でも、9年前に96歳で亡くなった光江さんが、幼い自分に正直に語り聞かせてくれたから、「あの日」の記憶がつながっているのだと思う。「だから私の役目も話すこと。生きてる限り語り継いでいかないといけんのですよ」